ALO,ALO,BRASIL

Guia do Cinema Novo
(シネマ・ノーヴォ案内)

text by E.シンクレール


シネマ・ノーヴォとはなんだろう・・?

大雑把にいえば、イタリアのネオリアリスモ、フランスのヌーベル・ヴァーグと同様の、新世代の映画(cinema novo)を作っていこうとするムーヴメント。新世代の、という点でボサノヴァ(bssa nova)とも共通するが、大きく違うのは、シネマ・ノーヴォには現実に対する批判的な視点が初めから備わっていたことだろう。


シネマ・ノーヴォの芽生え

初期のブラジルの映画産業はハリウッド映画の影響をうけ、
豪華で華やかなものであった。だが資金問題で次第に衰退する。

「頭に思想を、そして手にはカメラを」

50年代前半に、国産映画の復興を目指し、低予算で良質な映画作りを志す動きが始まる。その成果がネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督の「リオ40度」 1955年 であった。シネマ・ノーヴォの布石といわれるこのモノクロ映画は、ハダメス・ジナタリの音楽にのって、今の私たちからみれば優雅な感じもする。だが、例えばピーナツ売りの少年と傲慢な金持ちのやり取りを映像にすることによって、人々が見て見ぬふりをしてきた社会の問題(貧富の差、政治、暮らしetc..)を、見る人々に示した。政府当局によって上映禁止処分を受けるも、知識人らの抗議によって一般公開にこぎつけたという。

同時期に後にシネマ・ノーヴォの代表的監督となるグラウベル・ローシャ、パウロ・セザール・サラセーニ、レオン・イルツマン、カルロス・ヂエギス(後にナラ・レオンの夫になる)などのリオの学生達が、”メトロポリタン学生連盟”を結成し、週刊誌「メトロポリターノ」を発行。イアリアのネオリアリスモ、フランスのヌーヴェル・バーグに影響を受け、現実を捉えた映画、新しい表現方法を求めた彼らの活動がシネマ・ノーヴォと名づけられたことから、このムーヴメントは始まった。

50年代後半といえばボサノヴァの誕生と重なる。それまでの重たく大げさな表現、若者にとってはまるで現実味のないストーリー、騒がしいだけで薄っぺらなテーマ、体に染み付いたリズムと海外から流れ込んでくる文化とのギャップ。それらからの脱出が、ボサノヴァでありシネマ・ノーヴォであった。

ただ、お金に困ったことの無い人々がボサノヴァを支えたのと異なり、シネマ・ノーヴォは口出ししない資金提供者を探すので一苦労だった。また積極的に政治にかかわっていくことが、思想の根幹をなしていたためつねに政治的な葛藤も絶えなかったであろう。

「シェガ・ヂ・サウダーヂ」1958


1960年代前半 - 思想と手法の確立 -

華々しいブラジリア遷都と引き換えに、不況に陥った国内。ナラの「ショー・オピニオン」の成功が示すように、政治に関する議論が民衆のあいだでも活発になった。

シネマ・ノーヴォは海外の影響から脱却し、ブラジルに以前からあったドキュメンタリーの手法を使った映画作品が作られるようになる。題材は 社会問題をテーマにしたものが多く、映画が政治的発言、問題提起の手段となっていった。それでいて芸術的価値の高いものであることは「乾いた人生」(ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス)「黒い神と白い悪魔」(グラウベル・ローシャ)が1964年のカンヌで絶賛を浴びたことでも分かるだろう。

また正反対とも思える精神を持つ、ボサノヴァアルバムの良質なものが産み出された時期でもある。⇒「ボサノヴァ特集」


1960年代後半 - テーマの分散 -

64年のクーデターにより軍事政権に移行。映画人達は、それまでの問題提起が政治の流れを変えるものではなかったことに衝撃を受けた。敗北の理由を求めて、自分自身の内面を見つめはじめる。

同時に、それまでのテーマ・表現方法が、中産階級の人間の視点から抜け出せず難解で、民衆の十分な理解が得られていなかったことを反省。民衆の支持がなければ、映画の政治的影響力もない、という考えからより民衆受けする映画づくりを目指す。

ミュージックシーンも世代交代が進み、ボサノヴァからMPB、ジョベン・グアルダへとより大衆化された。


1970年代 - シネマ・ノーヴォは死んだか -

68年、軍事政権は議会の閉鎖、拷問の合法化などを示した軍政令第5号を発布。

当時の雰囲気は、69年リオで実際にあった若者によるテロ事件を題材にとった「クワトロ・ジアス」(1997)で、少しは感じることができるだろうか。

厳しい検閲と思想統制のために表現の自由を奪われ、危険を感じた多くの知識人、芸術家が海外へ亡命を余儀なくされる。国内にとどまった者はその政治的発言を、暗喩、ダブルミーニング等のテクニックで検閲の目を逃れた。

「トロピカリア」1968
「カエターノ・ヴェローゾ」1971(通称「ロンドン ロンドン」)

映画人たちは、製作の場を失ったり独自の表現方法を求めるようになり、70年代前半には、シネマ・ノーヴォとしてのまとまりはなくなってゆく。

それでも、ブラジルに古くから伝わる伝説を題材に取ったグラウベル・ローシャの69年の作品「アントニオ・ダス・モルテス」は同年のカンヌ映画祭で監督賞を受賞。 75年にはネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督が「オグンのお守り」を公開すると共に、シネマ・ノーヴォの精神を呼び起こそうという「民衆映画宣言」を発表した。レオン・イルツマン監督の「彼らは黒ネクタイを使わない」1981 はヴェニス映画祭で大賞を受賞。”シネマ・ノーヴォ・デ・ノーヴォ”と呼ばれ、その精神が失われていないことを思い出させた。

94年「クワトロ・ヂアス」の監督ブルーノ・バレットはシネマ・ノーヴォの映画を見て育った世代。まもなく日本公開の「オルフェ」はシネマ・ノーヴォの中心人物のひとりカルロス・ヂエギスの作品である。


レンタル店でみかけるグラウベル・ローシャの作品の一部を除き、ここで挙げた映画は、簡単には見ることは出来ない。今回のような映画祭は企画もので、限られた地域の人しか観にくいこともある。しかし、チャンスの女神は前髪しかない、というではないか。ほんのわずかの予備知識があるかないかで、女神がどちらから歩いてくるか、あなたのアンテナに引っかかる確率は倍増する。ここ数年、世界的に60・70年代のファッション/音楽等文化的な面が取り上げられてブームが続いている。シネマ・ノーヴォも再評価を受けているようだ。次なる機会がないとも限らない。サントラ1枚買う代わりに、たまには映画、もいいものですよ。


ブラジル映画祭2000のパンフレット他を参考資料にしています。また「乾いた人生」については、ひがしの氏から送っていただいたコメントを参考にしています。


back