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Bossa Nova

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プロフェッショナルの音楽としてのボサノヴァ

ナラのアパートの仲間たちは、ごく一部を除いて、基本的にアマチュアミュージシャンだった。ヴィオランをつま弾きながら、小さな声で歌うなどと言うことは、当時のプロ・ミュージシャンにとって、許し難いことだった。しっかりと編曲されたピアノとオーケストラをバックに、よく通る声で朗々と歌う。うまい歌手というのはそういうものだった。当時はレコード会社が専属の作曲家を抱え、歌手に曲を与え録音させるというのが一般的で、自作自演でしかもギターの弾き語りなどというのは、当時のプロフェッショナルの世界にとっては、いかにも素人臭いものだった。

ジョアンの最新作「声とヴィオラン」は、彼にとって初めて完全な弾き語りで録音されている。デビュー以来40年を経て初めて実現したのだ。「ボサノヴァはやっぱり弾き語りだよねぇ」という今時の認識が、当時の音楽界の常識といかにかけ離れたものだったか。50年代後半といえば、ロックンロールの黎明期。アメリカでもまだシンガーソングライターなんてものは、一般的にはなっていない時代。そんな時代にボサノヴァは、世の中に出ていったわけだ。

ボサノヴァが若者たちの間でのブームだけで終わらなかったことは、僕達にとって実に幸いなことなわけだが、そのためには「ボサノヴァ」が当時の商業音楽界に受け入れられる必要があった。そこに、アントニオ・カルロス・ジョビンがいた。

ジョアン・ジルベルトが、新しいバチーダを抱えてリオに戻った頃、ジョビンは新進気鋭の作曲家としていくつかのヒット曲を持っていた。その頃ジョビンは、ビリー・ブランコやネウトン・メンドンサ、ドロレス・デュランといった同世代の作曲家たちと、新しい感覚の音楽を創り出そうとしていた。型にはまったサンバや、重苦しいサンバ・カンソンではない、都会的でもっと洗練された音楽を作ろうと試行錯誤していた。そんな時に訪ねてきたジョアンのギターを聴いて、ジョビンは自分のやろうとしていることにそれが、うまくはまるような気がした。そしてお蔵になっていた曲「シェガ・ヂ・サウダーヂ」を引っ張り出してきた。そして、ボサノヴァ録音第1号として知られる、エリゼッチ・カルドーゾの「カンソン・ド・アモール・ヂマイス」で、日の目を見ることになった。

2000年になってジョアン・ジルベルトの新作が出た。店頭でも雑誌でも大きく取り上げられている。最近のボサノヴァ人気が有るにしても、こんな風に注目されたことは、今までになかったんじゃないかと思う。日本でのボサノヴァは、元々アメリカ経由で入ってきたこともあって、ジャズ系のものやセルメンを中心としたアメリカポップス系のものが主役だった。今でこそ、ブラジルのボサノヴァオリジナル作品を簡単に聞くことができるが、以前はあくまでマニアックな世界の話。そこではボサノヴァを象徴するのは、ジョビンであってジョアンではなかった。

作曲家ジョビンが提供した魅力的な旋律を数多くのミュージシャンが取り上げることが、アメリカでのボサノヴァブームだったわけで、基本的にパフォーマーであるジョアンよりも、ジョビンの認知度が高くなるのは必然ではある。ジョビンの曲を演奏することがボサノヴァを演奏することとイコールだったと言ってよいほどだ。

ヴィニシウス・ヂ・モライスと数多くの作品を残しているが、その期間は意外なほど短く、代表曲「イパネマの娘」がその最後を飾っている。それが、1963年のこと。自分の書いた戯曲「オルフェウ・ダ・コンセイサォン」の作曲者を探していたヴィニシウス・ヂ・モライスが、ジョビンと出会ったのが、1958年。その間およそ5年間。その他にジョビン単独の曲や、他の共作者との曲も含め、一人の男が作った曲が、今でも世界中でボサノヴァを代表する楽曲として演奏されている。良く考えてみるとこれはとんでもないことで、比較できるのはビートルズくらいのものだ。

ブラジルでは、レコード会社の職員として、作曲やアレンジの仕事をこなしていたジョビンが、初めて自分名義のアルバムを録音したのは、アメリカのレーベルだった。スタン・ゲッツの「ジャズ・サンバ」に収録された「ヂザフィナード」の作曲家として、ジョビンの名前は一躍知れ渡った。そして録音されたアルバムが「ヂサフィナードの作曲家・アントニオ・カルロス・ジョビン」。レコード会社の思惑がどのあたりに有ったかのか説明するまでもないが、事情はどうあれジョビンにとっては喜ばしいことだったに違いない。ボサノヴァの立役者であるジョビンだが、不思議なことにこの時期にブラジル本国での録音をほとんどしていない。「波」「潮流」「ストーンフラワー」といったアルバムは、すべてアメリカ産。ちょうど、ブラジルではボサノヴァ・ブームが一段落しようかと言う時期と、ジョビンの世界進出が重なったわけだ。ブラジル人のアメリカ嫌いは、筋金入りで、古くはアメリカで活躍したカルメン・ミランダや、曲がアメリカでヒットしたアリ・バローゾが、そのことを理由に批判の対象にされてきた。ジョビンも例外ではなかった。

後年の彼の音楽活動は、ボサノヴァと言う枠には到底収まらないもの。ジョビンは、最後までボサノヴァという言葉へのこだわりを持っていたようだけれど、彼にとってのボサノヴァって何だったんだろう? 偉大なるコンポーザー、プレイヤー、そして、愛すべき歌手、ジョビン。