ALO,ALO,BRASIL
Bossa Nova

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あの頃の音楽としてのボサノヴァ

1950年代後半のブラジルは、まさに大躍進の時代を迎えていた。55年に大統領になったジュセリーノ・クビチェックは、ブラジリア新首都の建設を中心に積極的な発展政策を採っていく。誰もがバラ色の未来を思い描いていた時代。永遠に発展し続けることを疑わなかった時代。ボサノヴァはそんな時代に生まれた。

昔、社会科の時間にこんなことを習った覚えはないだろうか? 「アメリカは人種のるつぼで、人種差別が有る国。ブラジルは混血が進んでいて差別が無い国。」実際には、ブラジルは厳然としたヨーローッパ式の階級社会で、差別が目立たないのは、階級間の関係が極めて希薄なために摩擦が起こりにくいというだけのことでしかなかったわけだが。とは言え、その頃は国全体が登り調子で富裕層はさらに富み、貧困層もそれなりにおこぼれにあずかって、何とは無しに浮かれた気分が国全体を覆っている。そんな時代だった。中産階級の若者たち−ボサノヴァのムーブメントの主役である彼らは、元々裕福な家庭だった上に好景気と来れば、なんの不安もなくモラトリアムな時期を過ごすことができた。カルロス・リラやホベルト・メネスカルは、まさに石原“太陽族”裕次郎、はたまた加山“若大将”雄三な世界を実際に生きていたわけだ。

ブラジルでは、大学生を中心に、この音楽は受け入れられた。自分たちの気分を表現するのにちょうどぴったりの音楽。自由でモラトリアムな気分を満喫するための音楽。学生が社会の問題と直面することなく幸せでいられた時代の音楽。60年代の激しい戦いの時代を迎える前の幸福な世界に生まれた音楽。

「ボサノヴァ」というのは、そういう気分を象徴する「言葉」だった。「新しい傾向」は、旧来のものとは違う自分たちの文化を欲していた若者たちにとって、ぴったりの感覚だった。極端な言い方をすれば、それは音楽ですらなかったかもしれない。ボサノヴァを支持した若者たちにとって、厳密な奏法や演奏形式、音楽理論を定義することは、さほど重要な問題ではなかった。そのため、かなり幅広い音楽がボサノヴァを名乗り、生まれそして消えていった。ボサノヴァのブームというのは、そういったものだったようだ。日本で言えば、ヴィレッジ・シンガーズも、岡林信康も、マイク真木も、みんなフォークだったのような、まぁ、そういうような感じだろうか。

ジョアンの2枚目のアルバムのタイトルでもあり、ボサノヴァのキャッチフレーズとして知られる「愛と微笑みと花」。ボサノヴァは、それまでのラブソングの主流だった、大時代的な恋愛物語を否定した。切々と歌われるドラマチックな愛の悲劇を、大げさすぎるとして嘲笑した。若者たちにとって、歌詞の面でもボサノヴァは新しいものだった。

アマチュアの学生の中から、ブームが生まれ、彼らのお気に入りのプロミュージシャンが仲間に入り、彼らの気に入らないミュージシャンも便乗した。ついでに、洗濯機も冷蔵庫もボサノヴァを名乗った。ボサノヴァ・ブームは、そんな風に盛り上がり、消えていった。ブラジルでボサノヴァがナツメロ扱いされていることを嘆く人も多いが、「あの時代の音楽」という認識は、地球の反対側で記録された音源を聴いているだけの我々には、なかなかつかみにくい感覚なのかもしれない。

その後、政治体制が変わりブラジルは長い軍事政権の時代に突入する。「愛と微笑みと花」がキャッチフレーズのボサノヴァは、もはや時代を表現する音楽では無くなった。

カルロス・リラが、いつも口にする「中産階級の音楽」というのは、そういうことを背景にしたものだ。社会の不安とは無縁の音楽。問題意識の欠落した快楽主義。それは、自らそのブームの渦中に身を置いた人物の語る一面の事実ではあるのだろう。その後のブラジル国内の情勢の変化の中でボサノヴァが「それ以前」の音楽として位置づけられてしまうことは、しかたないことなのかもしれない。